来年は明治150年。当時“新しい時代”について語り合うサロンが京都や大阪の街中で頻繁に開催されていました。
その中心にいたのが文人・田能村直入です。その直入が哲学の道の南端で晩年を過ごした寓居「若王子倶楽部左右」で、
近世の文人サロンにならい、煎茶会を通して“豊かな時間”を愉しむという催しを計画しました。
お茶は参加者のひとりでもある一茶庵の佃梓央さんが淹れてくださいました。
話し合いの間に2度供されたお茶は、夜話茶時に集った8名の喉も感性も潤しまろやかな心持ちにしてくれます。
まずは、前﨑信也センセイ(京都女子大学准教授)の問いかけから始まりました。
「最近経験した“楽しいこと”はなんですか」みなそれぞれ“楽しいこと”を述べたり考えたりするうち、「楽しさ」は単に
面白おかしいことではなく、自由にものごとが出来たり、考えたりしながら興味深い時間を持つことだということを
認識しました。
茶は平安時代のころ中国から伝来したようですが、江戸時代には身分の高い階級の人たちの間で茶を飲みながら暇な時間を
たのしむ「茶会」が盛んに行われていました。
彼らは、自分たちの知識や経験を述べ合うだけでなく、所有している美術品などについての思いや感想を自由に話し合いながら、
興味の広がりをたのしんでいました。そんなわけで、この日は前橋センセイご持参の掛け軸の日本画が“テーマ”です。
具象と抽象の中間のような風景画。初めて見るその絵を前にして、参加者は「何が描かれているのだろう」「作者はどういう
思いで描いたのだろう」「松の木に葉がないのはなぜか」等々、思い思いに口にし合いながら飽きることなく時間を過ごす。
答えがないからこそ、自由に発想し興味を広げてたのしみました。
このような時間は何十年ぶりか? 閉会時には、みなの表情がまるで子どもの頃にかえったかのようでした。
* * * 煎茶はオモロイ~第1回夜咄茶時 * * *
左右2階、正面壁に1幅の掛け軸が掲げられた一室。
涼炉(小さなコンロ)が置かれているテーブルを8名が囲んだ。初対面同志、みな興味津津の面持ち。
お茶の世話をしてくれるのは、参加者のひとり一茶庵の佃さん。開会やいなや、前﨑センセイはみなに「最近たのしいことは
なんですかー?」と問いかけた。
「海外への旅」「退職してから朝ゆっくりできること」「趣味。工芸品を手づくりすること」等々の返答に、前﨑センセイは
「旅の何がたのしいのか」「朝ゆっくりの何が」「工芸品をつくることのなにが」と質問をたたみかける。それぞれ一瞬考えないと
答えられない。
「海外の人や物と会うことは自分の発想が広がる」「自分の時間が持てると自由にものごとが考えられる」
「自分の世界が広がる」―― と徐々に考えが発せられた。
つまり、単に面白おかしいというのではなく、次につながるような興味深い時間が持てるということがたのしさになるんですね、
という前﨑センセイのコメントにみな納得する。そんなとき、ちょうど一服のお茶が供され、色と味をたのしんだ。
茶碗は、前﨑センセイ持参の帝室技芸員、今でいう人間国宝の三代清風与平の作、絵付けは田能村直入と孫の小篁とあって、
話題がふくらみたのしさ倍増となった。
さて、ここで話は江戸時代へ。
「江戸時代たのしみはあったか」。一般庶民は農作業と日々の生活に多忙で暇はなかったが、僧侶や貴族、豪商など限られた人々は
たのしみを持つ時間があった。そのたのしみの場に登場するのが「煎」であった。
自分の知識や経験の話もし合っただろうが、床の間に掛けてある掛け軸の絵や書をみながら興じることが多かった。
「何の絵だろう」「意図は何か」「何と書いてあるのだろう」「書の意味は」などと思いを口々に発しながら、興味の広がりを
たのしんでいた。今のように新しい物や情報がない時代である、自分たちの周りにある物を用いて遊んだのだ。
自由おおらかであった。
ところで、この絵は何でしょう、と前﨑センセイがみなに問いかける。正面の掛け軸の絵である。
参加者は掛け軸に目をやる。おもむろに席を立ち、それぞれじっくり”観察”すること数分。
「岩と木の取り合わせは何を意味するのか」「なぜ、松の木に葉が描かれていないのだろう」「ぼうぼう生えている草に
何かが象徴されているのか」「未来への希望を感じる」等々、感想や疑問が飛び交う。それぞれ想像を巡らせ、思いを発する。
人の推測を聞いてさらに想像がふくらむ。
二煎目のお茶が提供され、先のお茶との味の差もたのしみながら、わいわいがやがやが続いた。
この場に作者はいないので、答えはわからない。答えがないゆえに、座はより盛り上がる。前﨑センセイのリードによって、
みごとに江戸時代の「茶会」をたのしんだ2時間であった。
ちなみに、当日の掛け軸についての説明が後で 前﨑さんよりなされたので触れておく。
淡い色で描かれた風景画(木と岩と草がシンプルに描かれているが、何か暗示しているようでもあり興味深い)。
作者は文人画家・甲斐虎山(本名・駒蔵)、京都女子大学創設者のひとり、甲斐和里子の夫。虎山が描いた多くの絵は、
大学創設に大きく寄与したという。