『受賞作品の共通点 ―現代社会がクリエイターに求めていること―』
京都女子大学 前﨑信也
新型コロナウィルスが世界を席巻して2年が経ちました。その間に文化をとりまく環境も大きな変化を見せています。カタチを持たないデジタルアートが驚くような価格で取引されるようになったことと時を同じくして、お茶やお花といった、人に会うことが前提の文化にまつわる道具への需要は減退しています。
こんな悩ましい世界に、新しいお茶の道具を提案するこの公募展。第1回で残念だったことは、応募作品の多くが「使い古されたアイデアの中で表現する作品」だったということです。言い換えれば、歴史にのこる名品の写しや、そのカタチ・デザイン・テクニックの発展型をめざしたものばかりでした。技術的に極めて優れた作品は確かにありました。しかし、審査員一同はそういったアプローチをとる作品を賞に選ぶことができませんでした。現代に求められる茶の道具とは、過去の焼き直しからは生まれないと考えたからです。
コロナ渦で開催した第2回・第3回ではZoomという素晴らしい道具が普及し、全国各地からの参加者と審査員とが対話を持てるようになりました。我々が何を考えているのかをお伝えしたことで「茶の道具とはこうでなくてはならない」という強迫観念のようなものから、多くの出品者が解放されていくのを目の当たりにしました。そうして、過去ではなく現代とつながろうとする作品が増えました。
3回の審査を経て、私にはこの公募展が必要とする作品の基準のようなものが見えています。他のお二方が納得されるかどうかはわかりませんが、今後の制作の参考までにお伝えします。
まず、基本的な技術力は必要です。学生の部の受賞作でも、すばらしい品質の作品となっています。次は、作品がもつ個性の加減が大切です。作者の表現になっていながらも、使い手の表現を邪魔せず、茶人の創造の場を助けられるものが求められています。個人的な体験に基づいた「主観的な思い出のかたまり」のような作品は使いづらいものです。茶の道具とは、お茶の場で話題を提供するものでもあるため、亭主が事前に組み立てる会のストーリーに応用できるような「余裕」のある作品が良いのです。
最後は作者の個性です。第2回の講評でも書きましたが、優れたものが多すぎる現代。例えば茶碗としての機能だけを考えれば、100円ショップで売られているボウルも、長次郎の楽茶碗も同じようにお茶を点てることができます。このように機能の差が失われた今、「使いたい」道具を選ぶ場合には「この人が作ったものだから使いたい」という視点が実は重要なのです。
アートでも、ビジネスでも、YouTubeでも、工芸でも同じですが、現代は「何を作るか」よりも「誰が作ったか」の方が大切な時代と言えます。「自分はどんな人間で、なぜこういうものを作っているのか」ということを、アーティストとしてしっかりと伝えることが求められています。あなたの思想に共感してくれるフォロワーはどのくらいいるのか。茶人がその道具を使うときに「この作品を作った人は実は……な人で」と話題にできるような作者に、自分自身を演出できているかどうかということです。
工芸を生み出す優れた技術を持っていて、使い手が自由にストーリーを発展させることができる作品であり、作者自身が記憶にのこる人であること。これまでのティー・エレメント展は、この3つの要素のバランスで評価が決まりました。もちろん、今後も同じ方針が続くのか、それとも変わるのかはわかりません。変化し続ける現代社会に取り残されないよう、審査員もそれに応じて変化し続けたいと考えているからです。
今回もたくさんの方にご応募いただきました。たくさんの素晴らしい作品をありがとうございました。
『狭さと深さ』
茶人・会社員 中山福太朗
多くの作品のご応募、ありがとうございました。
なぜ「ありがとうございました」なのかと言えば、この公募展は、私たちの仲間を探しているようなものだからです。そこに参加して下さったことがうれしい、という思いからの言葉です。勿論、応募してくださった方にそのようなつもりはないでしょうが、私はやはり、仲間を見つける目で作品を拝見しています。
そういう意味で、この公募展は優劣を決めるためのものではありません。賞を設けておいて、このようなことを言うのは妙だし、ずるいと思われるかも知れません。ですがあえてそう言うのは、本展は選考のプロセスこそ重要であると思うからです。作家が先人の足跡を辿りつつ、今を受け止めるモノを作るにはどうするか。それは、使い手を含めた「今」にきちんと向き合うしかありません。
多くの情報が容易に入手できる時代になりました。茶の湯が立ち上がった時代にくらべ、広く、詳細な情報を入手できているはずなのに、その頃に起こった文物を未だありがたく崇拝しているのはなぜでしょうか。
本展は、公募展として大きな規模のものではないでしょう。ですが、規模や広さを求めた結果、茶は何を生んだでしょうか。小さなコミュニティの歴史に消える1点であっても、ある深度に至った狭く深い内輪ノリは、時間を貫く普遍性を獲得します。今に向き合った、狭く深い極が多く存在する。そんな世の中が、文化のようなものを生むのではないかと、最近は考えています。
『「珍品」好みの審査員として』
煎茶家・一茶庵宗家嫡承 佃 梓央
「何これ⁉」とニタッとしながら受賞作品すべてをテーブルの上に並べて見ていました。今回も、イイ意味での「珍品」を選ばせていただくこの公募展のカラーがはっきりと出たように思います。
私が審査の時に意識していることは二点です。
古い工芸品や美術品と並べたときに、負けずに主張してくる力があり、それが古い工芸品と和音であれ不協和音であれ何かを奏でてくれるかどうか。
もうひとつは、映像や音楽、言葉、空間、もちろん造形物も含め、現在の芸術家や非芸術家が制作する様々なメディアとともにご応募作品を用いてみることを想像したとき、何か魅力的な感覚を与えてくれるかどうか。
今回ご応募いただいた作品は、後者に叶う作品が多かった印象を受けています。
「ティー」すなわち「茶」という言葉を冠にしている公募展ですからともするとそこに応募していただく作品は、前者を狙っているのに力のない痩せ衰えた作品であったり、既存の作品の、生命力を失わせてしまっただけのコピーであったり、約束事にがんじがらめの自由のない作品であったりしてしまうものです。
しかし今回ご応募いただいた作品の多くにそうではない魅力がありました。
古いモノ(茶道具に限らず)や現代の様々なメディアと同時同場に存在させたとき、和音でも不協和音でもとんでもない何かを奏でてくださる珍品にこれからも出会いたいと願っています。